雑踏で変化する音

街中を闊歩するとき、あるいは信号待ちで退屈しているときに、すれ違う人々に対して聞き耳を立てるほどでは無いにせよ、皆何か会話をしているのは分かる。

だがここ最近、少し様子がおかしい。

と言ってもおかしくなったのはおそらく自分の方であるように思われる。

一体全体なにがおかしいのかと言うと、皆が話していることばが「日本語」であると気付くまでに恐ろしい時間を必要とするようになってきた。恐ろしいといっても、音速、と言わずとも音が出た瞬間に何語を喋っているのかを把握するという段階から、音が出て、1単語、1文脈まで聞かないとそれが「日本語」なのか「それ以外」であるのかという判別が出来なくなったという感じです。

僕自身は大阪府の茨木市というところで生まれ育ちました。地理的に見ると大阪府の北部、昔なら摂津国と言われていた場所になります。現在では私鉄の阪急電鉄が走っていて京都四条河原町、大阪梅田や神戸三宮などへのアクセスに優れている場所というのが分かりやすいでしょうか。そのおかげか茨木市を含む「北摂」というエリアには転勤族の人々が多く住んでいる印象を受けます。ですので、何と言いますかあんまり外の人から見た「大阪」っぽくはない場所、人々の話し言葉であるなというのが僕の20年ぐらいの生活で得た経験です。

そして今は東京都の墨田区で生活しているのですが、現在で1年半ほどになりましす。その違いと言われると、一つは日常の中で多くの海外の人が生活圏に存在しているというところでしょう。特に今日では中国・韓国の人が多く東京を訪れているように思います。

さて、今の生活で雑踏に紛れているとやはり色々なことばが聞こえてくる。昔ならば「日本語」が雑踏の音をだいたい全部占めていたが、それが変化した。人種、肌の色や骨格が明確に違っていれば「それ」が海外の言葉であると簡単に予測出来たものが、より日本人と身体的特徴が近い東アジア圏の人に対しては「見る」だけでは予測が立てにくい。さらに加えて、それが「日本語」であった場合に「どこの地方の言葉」であるかなどと絞り込みをかける癖が付いてしまったようだ。

こうして筋道立てて考えてみると生活環境が今までと違うこと、視覚情報に重きを置いていたことが、導入で挙げた雑踏を生み出したのではないかと何となく理解できた。

ここからさらに、日本人が全然いない環境で生活する、視覚情報より聴覚情報を優先してみるなどと変化を与えてみると、また違った雑踏になるのではないかと思ったりしてみる。

生活環境や、そもそも一人称が別の人に代わるだけで雑踏が変化するのかも気になる。

 

それとも、本当におかしくなってしまっただけなのか。